〒250-0011神奈川県小田原市栄町3-16-2
 株式会社ハウスパートナー

社長的こころ 1

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 目次


 

シンボルマークの犬

小社のシンボルマークはボルゾイのマリです。
ボルゾイはロシアのニコライ皇帝が飼っていたという本当に貴賓あふれる犬です。犬はシェパードに始まりシェパードに終わる。といいますがこのボルゾイは見たものの心を奪わす素晴らしさがあると思います。

ほとんどの大人の男(この場合額に汗して働いている人を指す)ならわかってもらえると思いますが、毎日が「今日も俺のことを誰もわかってもらえなかった。」とつぶやく世界に生きています。
飲み屋に行けば、どういうわけか私だけ他の客より料金が高くなる(またそういう飲み方をする私もいけないのだが)。
また、相談を受け、全部の債務者と話をつけてやったのに他の人に売ってしまう。
(実はまだ負債が他にあったのだ。)
[ただ生きていく それだけでいいのだが,,,,]
という非常に厳しい、しびれる毎日を生きている。
その中で唯一私の相手をしてくれたのがシン・ボルマークのマリです。
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天地真理

私は天地真理のファンである。
このことを人に言うと「え?何で?おかしいじゃないの?あんなにふとったおばさん」と眉をひそめる。しかし、しかしである。
昔は国民的アイドルだったのである。松浦亜弥よりすごかったのである。
モーニング娘よりすごかったのである。

私は田中角栄氏が汚職事件で逮捕された時のことを覚えている。
彼が総理大臣になったときにマスコミは今太閤と持ち上げた。
その後田中角栄氏は病気になり、とても苦しい思いをした。マスコミはここぞとばかり天罰だと糾弾したところがその時、中国政府は、「田中さん、私の国に来て病気を治してください。」と言ったのだ。私を含めてみんな不思議がった。なぜ、中国は犯罪人の田中角栄氏を擁護するのかわからなかった。
中国政府は「井戸を掘ってくれた人のことは忘れません。井戸を掘ってくれた人が困っている時に助ける人が本当の人である。」といったのだ。
ニクソン大統領も回顧録のなかで「人生はジェットコースターのようなものだ。登りつめたらすぐ下る。でも、また登れる。」と言っている。
天地真理が生きている限り私は天地真理を応援する。
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最初のボルゾイ

最初のボルゾイは20年前通信販売で買った。10万円だった。
木の箱につめられて近くの運送会社まで送られてきた。
あまり元気がなかった。名前はメリーとした。
1ヶ月ぐらいすると口からよだれを流すようになり、ある晩突然狂ったように斜めに走りだした。一生懸命押さえつけようとしたが暴れまくった。
次の日病院に連れて行った。 当時ボルゾイはまだ珍しかった。
なんだかんだ入院費用で30万円ほどかかった。
お金のことはどうでもよかった。ただただ悲しかった。
死んだ日は私の家の「建前」の前日だった。
山へ行き埋めた。
 やはり通信販売ではだめだ。実際見て買わなければだめだと思った。
とてもかわいそうなことをしたという気持ちになった。
しばらくは何もする気が起こらなかった。

それから結婚をした。

結婚後 私は妻に犬を見てくると言って、埼玉に行った。

そこは昔養豚をやっていたが養豚では食べていけないのでボルゾイのブリーダーをはじめたところだった。

犬舎には何十頭ものボルゾイがいた。

みんな寝ていたが私が行くといっせいに立ち上がった。 

こんなに多くのボルゾイを見たのは初めてだった。

子犬を見せてもらった。10頭ほどいた。 その中で一番かわいい茶色のボルゾイを選んだ。

それが最初のマリである。

マリは10年ほど生きた。今考えれば、あまりいい飼い主ではなかった。

 

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マリ2世 1

私は限界に達していた。 うまくは言えないがどうしてもボルゾイが欲しかった。

会社の景気はあまりよくなかった。でも去年に比べれば楽だった。

飲みに行くのも飽きてきた。女の手口があまりにも露骨になって行くのが嫌になっていた。
ゴルフも90を切るのはとても無理で、100をきるのがやっとという状態だった。

それも距離が短くバンカーもないいんちきゴルフ場でだ。

ドライバーは200ヤードがやっとで、一緒に回る20歳年上の人より飛ばない。


息子は今高校年であと1年はなんとしてもがんばらなければならない。 それだけを考えて生きている。

とにかくボルゾイを飼って昔の輝き(たいしたもんじゃないが)を取り戻そうと思った。
インターネットでいろいろ探したがこれはというのはなかった。 いや、私が買える金額ではなかった。

  いろいろ本を探していたら三重で11万円で販売している業者があった。
早速連絡をした。年配の方らしく声から実直な感じがした。
私が 「どうしてインターネットでボルゾイを販売しないのですか」と尋ねたら「パソコンのやり方がわからないし、触ったことがない。」と答えた。
「うれしかった。」本当の友人にあったような気がした。
なにも見ないで買うことに決めた。
10月22日は新月なのでこの日に迎えに行くことに決めた。
いつもは起こされないと起きない私は3時に目覚ましで起き、(なぜなら高速代 が早朝割引で半額になるからだ)
今日で捨てるアベンシス(2年で7万5千キロも乗ってしまった)に乗ってマリを迎えに行った。
犬を入れてあるオリの中には成犬が10頭ほどいた。その中には初代マリと同じ茶色の犬もいた。
「マリ お前はこんなところにいたのか」とさけびたかった。 しかし、メスは1頭しかいないので何も選ばすに買った。
それが今のマリである。
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マリ2世 2

マリが来た。今回のは白に黒のぶちが入った犬だ。
自慢ではないが私は息子のおしめを1回も変えたことがない。しかし、今回は私が全部おしりの世話をしている。
マリはとにかく元気である。芝生を飛び跳ねている。
そして、叱られても、叱られても意味がわからないのか同じ悪さをするのである。これが前のマリと違うところだ。
庭に植えている花はあっというまに全滅してしまった。
ほうきと格闘し、ご丁寧にもどこから見つけたのか知らないが鳥の骨までみつけて嬉々として咥えている。

マリが来て生活のパターンがずいぶん変わった。
まず土日の現地販売会である。
前までは客が来ないと暇なので室内で電車を走らせていたが、マリは私の姿が見えないと泣くので外にいるようになった。つまり趣味の電車ができなくなった。
そして一番変わったのはマリと一緒に寝るようになったことだ。
マリはまだ子供なのでそこらじゅうでおしっこやウンコウンコをする。だが、車の中とベッドの中ではまだしたことが無い。
しかし、朝起きるとどういうわけかマリのお尻が目の前にあるのには参ってしまう。

  犬の寿命は約10年だ。 ボルゾイのような大型犬は寿命が短い。
マリは私より先に死ぬ確率は高い。
前のマリが死んだとき私は剥製にしようとした。しかし、家族の反対によりできなかった。
マリ2世が死んだとき私はマリを剥製にするだろうか。それとも死んだ次の日に新しいマリを買いに行くだろうか。
おそらく、適当に言い訳をして逃げているだろう。
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マリとの思い出★1

マリとはいろいろな思い出がある。
臆病なマリは花火の音が嫌いで 近くの八幡神社の花火の音に驚き脱走した。
また、とても気まぐれなのでちょっと眼を離したすきにどこかへ行ってしまう事もよくあった。その度に私はいろいろと探しまわなければならなかった。

私の父はその頃シェパードを5匹飼っていた。私は軽トラにシェパード5匹とボルゾイのマリを乗せ、よく山へ行った。
スルガ銀行がオーナーをしている駿河平にはベルナールビュッへ美術館をはじめ、いろいろな文化施設が造られていた。そこによく犬を連れて遊びに出かけた。
周りの人たちはたくさんのシェパードとボルゾイに驚いていた。私はとても満足していた。犬を6匹連れて歩けることに大変な自己満足を味わっていた。

ある日いつものように山へ犬たちを散歩に連れて行ったあと、用事で沼津に行くことになった。
いつものように荷台にシェパード5匹とマリを乗せていた。

すると、人通りの多い繁華街の交差点の信号待ちをしていた時、小さな犬がいた。
何を思ったかその犬がこちらに向かって吠えたとたん、シェパードがいっせいに荷台からおりてしまい、綱を引きちぎり子犬を追い掛け回し始めたのである。交差点は子犬を追いかける5匹のシェパードで大混乱になってしまった。
私はとりあえず車から降り、犬の名前を呼びながら1匹づつ、捕まえようと必死になった。

子犬の飼い主は呆然と立ち竦むばかりだった。

辺りは渋滞し始めた。近くの交番の警官まで出てきた。
私はどうしようかとうろたえた。頭の中が真っ白になり始めた。
3匹めを捕まえた後、残りの犬たちも車に戻ってきた。ようやく収まりがついた。
気がつくとマリはどういうわけか荷台から助手席に移っていた。

私はホッとして「おまえは逃げなくていいやつだな」と声をかけた。
警官に挨拶をすませ、私は運転をしようとした時、異様にくさい臭いがした。

なんとマリは助手席にウンコをしていたのである。
それから、散歩の時は必ずマリは助手席に乗り、私がちょっとでも席を離すと助手席でウンコをするようになったのである。

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マリとの思い出★2

私はマリを連れ、散歩がてらに飲みにいくのが日課になっていた。
飲みに行く店ははいつも決まっていた。”栄太郎”に行ってその後”クリステイ”に行くのがお決まりのコースだった。その頃はまだ景気がよく、楽しい時代だった。

その日は私はだいぶ酔っていた。お酒は強いほうだが最後のストレートがだいぶ効いていた。しかし「山崎」はうまかった。私は楽しい、ほろ酔い気分を味わっていた。
帰り道、しばらく歩いていると鞄を持つ手が重たくなってきた。
そこで私は鞄(イタリア製で高価だった)の取っ手に、マリの鎖を繋いでマリに鞄を引かせることにした。マリは嫌がりもせずに鞄を引き始めた。
私は、こいつも役に立つことがあるんだなと思い始めた。

音を立てながら鞄を引くマリの後をフラフラになりながら歩いていた。
時間は夜中の2時をまわっていた。静かだった。人もいず、静まり返っていた。
冬の夜空はとても蒼くきれいだった。
もう少しで家が見え始めるところに来た。するとマリは突然、鞄もろとも走り始めた。
ボルゾイは足が驚くほど速い。鞄には預金通帳、実印をはじめ、大切な書類が入っている。私はいっぺんに酔いが醒め、追いかけ始めた。
しかし、マリは鞄をガンガン鳴らしながら遠くに走り去っていく。
「マリ」と大声で叫んだが、無駄だった。私は呆然と立ち竦んだ。
夜中の2時、ボルゾイが会社の重要書類を持って逃げていく様はなんともいえなかった。
しばらく、そこにボーッとしていた。

翌朝、起きてみるとマリはちゃんと自分の小屋にいた。
しかし、鞄はなかった。
決算の時、領収証がないのでとても困った。
税理士には「犬が持って行ってしまった。」と説明したが信じてはもらえなかった。

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不動産屋街 1

今から6年前、私が独立して間もないころだった。
夜10時頃、仕事をしていると表で自動ドアをドンドンと蹴る音がした。
誰だろうと思い見てみると、そこには、赤ら顔の甲不動産のオヤジが立っていた。
甲不動産はここら辺では有名である。 甲不動産はかなり酔っていた。
開口一番 「だめだァ だめだァ。 こんなところで不動産屋をやってもだめだ。 いいか、秋葉原を見てみろ、電気屋は電気街でなきゃだめなんだ。不動産屋も不動産屋街でやらなきゃだめだおまえはぜんぜんわかってない。」と怒鳴り始めた。
私は少しむっとしたが相手が相手だけに 「社長のおっしゃるとおりです。でもここしかなかったもんですから。」
「そんなことより、おめえはいろいろとおれのことをほめているらしいな。」
甲不動産はいろいろと伝説がある。
たとえば、管理しているアパートのトイレの修理を頼まれたとき、普通なら事前に連絡をして、修理をしに行くが、甲不動産の場合、連絡をしないのはもちろん、ノックもしないでいきなりドアを開け「ここかあ、トイレが壊れた家は」と大声で叫んだのである。たまたま家族全員、夕食の最中でみんなびっくりしたそうだ。また、マンションの案内をしたとき、お客があれこれと質問をしたら、「買うのか、買わないのか はっきりしろ。俺は忙しいんだ。」と怒鳴ったのである。
 私はそんな「話」を聞くたびにうらやましいと思うのであった。
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不動産屋街 2

それから、5年後私は自前の事務所を持つことができた。
狭いながらも自分のものである。
今までは家賃16万円を払っていたが、これからはそれはなしである。その上、2階を貸しているので家賃収入が入る。
計算すると今まで家賃を1000万円ぐらい払っていたことになる。家賃ほど馬鹿らしいものはない。買ったほうが安くつくし信用度も全然違うというこ とが今回よくわかった。
そこは甲不動産の近くの、いわゆる不動産屋街だった。
私は甲不動産屋に挨拶に行った。社長は私を見るなり言った。
「お前はなぜこっちに事務所を移した。 駅に近いほうがいいに決まっているのに。ほんとうに変わっているやつだな、おまえは。俺は駅の近くに移そうと、検討してたんだぞ。」
私は甲不動産が本当に好きになった。
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小田原に背を向けて 1

小田原に仕事でくるようになって12年ぐらいになる
あっという間だった。
時々たまらなくさびしい気持ちになってしまうのはなぜだろう。
本当はほかで商売をやってもよかった。平塚あたりでもよかった。
まったく違う人生だったろう。

Yという不動産会社に入ったころ、取引先の人に「高田さんと私では生活レベルが違うから私とはお付き合いができないでしょ。」と言われた。
本当のことだとしてもずいぶん失礼なことを言う人だと思った。
でもそのときは笑うしかなかった。
だが、その人は夜逃げをしてもう小田原にはいない。
それよりも10年前に不動産関係者との旅行の写真をみると、この人がと思うような人が自己破産をしたり、
行方不明になっている。それほど、バブル後の経済の破綻はひどかったのである。
商工会議所の親睦ゴルフに参加する人数もずいぶん減ってしまった。

早い話が、私が最初に事務所に構えた中央通りの反対側に13軒の店があったが、
私が店をやっていた年半の間に、店の名前が変わらなかったのは2軒だけで後はみんな変わってしまった。
店を借りて家賃を支払っていた店は全部入れ替わってしまったのである。
それほど出入りが激しい時代だったのである。
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小田原に背を向けて 2

  縁が会ってYという不動産会社に勤めることができた。そこは割りと自由にやらせて頂いてたくさん稼ぐことができた。従業員も合わせて15名ぐらいでアットホーム的な雰囲気の会社だった。年ぐらいすると急に社員が増え始めた。最後には100人ぐらいになってしまった周りは不況でリストラしているのに不思議に思った
2年くらいすると急に社員が増え始めた。最後には100人くらいになってしまった。周りは不況でリストラしているのに不思議だった。
私は自分の歩合さえもらえればいいという考えだったが、そういう自分勝手な私でさえおかしいと思うように人が増えていった。

Yの社長はテープを聴いていた。 そのテープは「できる。できる。」という言葉を繰り返し流すテープだった。自分に「できる。できる。」と言い聞かせれば「すべてできるようになる」というテ ープだった。
しかしそれは「単なる、思い込み」であって、客観的な事実ではない。もしそうだとしたら、政府がお金を払って日本国民にそのテープを配るはずである。
会社の決起集会でその「できる」テープを販売している講師がでてきた。
太って脂ぎった講師が私の目の前で「親指を立てて、できる。できる。を繰り返し唱えれば何事もできるようにと、自信たっぷりに話した。
そのときの講師料は50万円をくだらなかった。
私は正直気持ちが悪くなり、集会の会場から立ち去った。
それはカルト的な新興宗教の考え方とまったく同じで、早い話がその講師の金儲けの餌 になっているとしか思えなかったからだ。
私はたいした人間ではない、しかし嘘吐きの人間にお金を払いたくないし、顔を見たくもないもうこのへんが潮時だと思った。
私はYをやめ、独立することにした。
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小田原に背を向けて 3

最初は間口間半、つまり入り口の幅が約メートルしかない狭い店だった。
机とコピー機を置いたら身動きができないくらいの店だった。
好きな電車を飾り、自己満足に浸っていた。
外にお酒を飲みに行くことなんか考えもしなかった。
自転車に乗り、ビラを配り、小田原から開成 町、大井町、南足柄市の侭下まで出かけていった。一日800枚を配ることを決めていた。とても疲れたが、自分にできるのはこれぐらいしかないと思ってやっていた。いろんな人に会い、しかられ、嫌な思いをした。
毎週、毎週、飽きもせず現地販売会をした。ひどいときは3週連続誰も来ないときもあった。
だが何とか生活には困らなかった。
箱根新道を通って下ってくると相模湾と小田原城が見えるところがある。
海の青さと遠く三浦半島が見える。
冷たい風から穏やかな風に変わるポイントがある。
自分の心に青空が広がるのはいつだろうか。
いつになれば、安定した生活が送れるだろうかと思っていた。
結局ないものねだりの人生だから。
不安はあるけど、不満は何もなかった。
稼げないのも自分の力、それはそれで我慢をするしか方法はなかった。
嫌な人に気持ちを合わせながら生きるのも「自分の力」「悔しかったらえらくなんなさいよ。」と聞こえてくる。
「別に偉くなったからといって、幸せになれるわけじゃなし。かえって嫌われる場合もあるし、難しいよね。」と言う自分もいる。
小田原に背を向けて、生きていくのはいつだろうか。
ずっと小田原にいて暮らすのだろうか。
他に帰る場所もないし、新しく行く飲み屋も見つけたし、当分このままで暮らすのだろうか。
小田原に背を向けて「高田さんも丸くなったね。」と言われるだろうか?
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車 Vol.1

私はあまり車には興味がない。というよりあまり縁がなかった。
30歳まで車を買ったことがなかった。否、買えなかった。デートの時は弟の車や親の車を借りていた。別にそんなにほしいとは思わなかった。それで十分だった。むしろ、外車を乗り回していた従兄弟たちを軽蔑していた。

昨年、私はテニスをしていた時にじん帯を切り、歩けなくなってしまった。
事務所から駅まで普通なら3分で歩けるところを松葉杖だと40分もかかってしまい、腕もいたくなり、車で通勤することになった。
私の車はウイルというかぼちゃみおたいな1300tの車だった。
私はそのかわいらしさがとても気に入っていた。しかし、いかんせん1300tでは箱根を越えるには大変だった。
そこで新しい車を買うことにした。早速ウィルを買った営業のNを呼んだ。
彼は私の事務員が青のウイルが欲しいと言ったのに、白のウイルを持ってきてこれは白っぽく見えるけど青ですと言い張った営業マンだった。もちろんカタログにはちゃんとした青のウイルがあったのだ。
たぶん決算の関係で納車に間に合わせるためだろう。それぐらいはわかっていた。私は彼に「5万円やるからゴルフのワゴンを買ってきてくれないか」と頼んだ。すると彼は「社長、外国の車はよくありませんよ。日本には日本の気候にあった日本で造られた車が一番ですよ。」と言った。
私はそれはそうだと思い、彼のお勧めのアベンシスという車を買うことにした。

彼はすぐに見積もりを持ってきた。
「社長、この車でしたら箱根の山も大丈夫ですよ。やはり、日本には日本の気候に合った日本車が最高ですよ。」と自信たっぷりに話した。
しばらくして私はテレビでアベンシスのコマーシャルを見た。そこでの見出しは「トヨタが造ったヨーロッパ車」だった。
私はすぐNを呼び、「お前、アベンシスはヨーロッパで造った車じゃないか、それを輸入してるんだぞ。」と怒鳴った。
すると、彼は顔色ひとつ変えずに
「社長、なにを言っているんです。アベンシスはヨーロッパで造りましたけど工場はトヨタなんですよ。工場の中は日本のトヨタの空気なんです。だから、日本の気候にピッタリなんですよ。お願いします。日本車なんですよ。日本の空気が流れているんですよ。」
「お前は、日本で造った車でないと日本の気候に合わないといったじゃないか」
「いや、社長、だからアベンシスは日本車なんですよ。トヨタの工場はどこでも日本の空気なんですよ。
そんなにいじめないでくださいよ」
彼はなかなかの営業マンだった。私も営業マンのはしくれだから彼の言う「理屈。」そして「いじめないでくださいよ。」というセリフに弱かった。
「まあ、いいや、どうせ2年ぐらいしか乗らないんだから」私はあきらめた。
1週間後アベンシスが来た。彼は得意の薄ら笑いを浮かべてにじり寄ってきた。「社長、どうぞ、どうぞ、」車のドアに手をかけ私にこう言った。「社長、この重量感。さすがヨーロッパで造られた車は違いますね。」
私はすぐに所長のところに行き今までのことを話した。
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別荘 1

仕事で沼津、富士、富士宮まで活動範囲が広がってきた関係上、車での移動が 多くなった。
村上 春樹が月の半分を箱根で小説を書いているらしい。
とても静かでよいらしい。静寂の中でただひたすら小説を書くという行為に没頭 できるらしい。
私も通勤途中の箱根に秘密基地があればいいなと考えていた。そこでゆっくり考えたり。ボーとしたりできたらいいと思っていた。 もちろん別荘を買える身分ではないし、お金もないし、無理だと思っていた。
ただ、通勤途中の箱根あたりに隠れ家を持ち、そこに美術大学卒の女性に 時々、コーヒーを飲みに立ち寄って話し相手になってくれることを 条件に別荘の1室をアトリエとして貸し、仕事の途中で「やあ、久振り、どお?」
「いい作品できた?」「コーヒーをどうぞ」「最近悩んでない? 画風がかわってきたよ」
「そんなことないですよ。ただ、社長があまり寄ってくださらないので、、、、、、」なんていう会話ができたら最高だなんて。
いつもの得意の妄想を植木等の歌を聞きながらふくらまさせていた。

私はたいした人間ではない。
しかし、不動産屋だ。そしてお金儲けはうまくはないがそこそこの不動産屋だ。
ヒョンのことから芦ノ湖に別荘を買うことができた。
土地は約180坪(国立公園ないのため借地だが)建物は30坪、箱根峠から5分ほど入った途中にあり、隠れ家としては申し分のない広さである。前の所有者は大手電鉄会社の役員だった。
建物の建築契約書を見たら3200万円だった。坪単価100万円の家だった。ちなみに私が売っている建売は坪単価 50万円である。
平成3年築 バブルのころの建物ため造りは非常によい。 檜風呂があり、基礎部分もしっかりしていた。
しかし、修理に約300万円ほどかかる。その300万円でさえ今はないが、車を1台買ったと思えば安いものである。
あきたら売ればいいという「ノリ」で買うことにした。
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別荘 2

とにかくここは静かである。
聞こえるのは本当に鳥の鳴き声と 虫の音しか聞こえてこない。その静けさの気分はなんともいえない。騒音が聞こえないということは これほど気分をリラックスさせるものかと思った。
そして涼しいということである。
眼下に駿河湾を臨み、さえぎるものはない。
小田原が32度のうだるような暑さでも せいぜい26度ぐらいにしかならない。
倉庫に前の所有者の持ち物が残っていた。
海外旅行の写真や国際会議に出席したときの写真やアルバムがあった。帝国大学を出て、工学博士だったらしい。色々なものが出てきたが私よりはるかに素晴らしい人だという ことはわかった。
つまり、冷静で穏やかでジェントルマンである。
私は当然、無神経、無教養、体力派である(その体力もなくなってきたが)。
トロイの遺跡を発掘したシュリーマンはすべての書類(ちょっとした店の支払い伝票まで)を保管し日記に記していたが、この人もそういう感じできちんと整理していた。
私は30分前にもらった書類を取り出すのに1時間はかかってしまうほど だらしない人間である。
まったく知らない人の過去を見るのは切ない。 それが幸福な写真であればあるほど。
人間死んだらおしまいである。とにかく私は楽しく生きたい。陽気に明るく生きていたい。
嫌な人とは会いたくない。見栄を張らずに楽しく生きていたい。 そう、切に願うのである。
そして自分の部屋にある荷物を整理し始めた。
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別荘 3

別荘の庭には竹や雑草が生い茂っていた。
どこをどうやって切ればいいぐらいはえていた。
おそらく持ち主は高齢のため庭の手入れが できなかったのだろう。
エンジン付きの草刈機を買い、切り始めた。とにかく大変だった。
人にやらせたほうがいいのではと思ったが やはり自分でやったほうが愛着がわくと 思いがんばってやった。
ところがきったのはいいがその木や葉っぱをどうやって処分したらいいかと思った。
燃やすことは国立公園なのでできない。しかたないのでトラックで運び 家で燃やすことにした。
隣の人と挨拶をした。 元大手銀行の頭取だった人だ。ちなみもう一軒向こうの人は 村上 春樹まではいかないが芥川賞作家であった。
私は住み込みの運転手をしています。と答えた。
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別荘 4

草刈が終わり、庭全体が見えてきた。
この庭をどうするか?普通なら 新たに樹を植えたり、ベンチを置いたりするだろう。 しかし、そんなことはしない。
私の夢は自分の鉄道会社をもつことである。もちろんそんなことは無理な話である。そこで自分の夢に一歩でも近づけるために 模型を買うのである。
Nゲージ HOゲージ等、 鉄道模型に注ぎこんだお金は500万円以上である。
極端なことを言えば鉄道模型を買うために不動産屋をやっている。
嫌な客と話しをしているときにはこの人と契約したら あの電車が買える。と思って仕事をしている。
イギリスでは 庭園鉄道というのがあり自分の庭に鉄道を走らせている人がいる。それは趣味お王様と呼ばれている。
私の家の敷地は約200坪ぐらいあるので庭園鉄道を作るのは可能である。
しかし、斜め前に6階建てのマンションが建ち 見下ろされている状態の場所ではなんとなく落ち着かない。
それより、まだ戦前の大地主の所に挨拶に行かなければ 話がまとまらない閉鎖的な場所で、 私がそんなことをやり始めたら「いよいよ 来たか」 「ついに、、、」と思われるのが落ちである。
そこで別荘の庭に鉄道を敷くことにした。
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思いつきで生きてます

今回の契約は大きかった。7800万円のビルである。
評価を積算していくと1億5千万円ぐらいの価値があると思われる。実際、建物の評価額は7千万円だった。
買っていただいたのは40歳ぐらいの社長さんだった。
あっという間に契約して頂いて、契約した次の日に「急で申し訳ないが二日後に決済をしたい。」といってきた。私は耳を疑った。
諸経費を含めると9千万近いお金を二日ぐらいで貸してくれる銀行はないと思ったからだ。
普通はどんなに早くても3週間はかかるからだ。
私はすぐに売主に連絡をとり、決済をすることにした。 決済は何事もなくスムーズに行った。
銀行でお金が実行されるまでの間、社長さんは紙袋を出し、足りないといけないからもって来まし たと、1000万円近い札束を銀行員へ無造作に渡した。
私も昔は銀行員のはしくれだったが、こんな風に持ってくる客はひとりもいなかった。
「ずいぶん、急でしたね。」と私が尋ねると
「思いつきで生きている。」と社長さんは答えた。この言葉にはしびれた。なぜなら、思いつきで生きているのは私の人生そのままだからだ。
私は尋ねた。「私も思いつきで生きていることに関しては、かなりの自信があるのですが9千万円のお金をすぐ動かせる社長と私ではエライ違いですね。」とい った。
すると周りにいたS氏は「この言葉にはすごーい深い意味があるんですよ」と言い、
A氏は「高田さんの場合は思いつきではなく、何も考えていない。」と言いはなった。 「そうだよな、そうだよな、本当にそうだよな。」
「まあ上を見たらきりがないから私は私で、犬でもいじめて、「いいちこ」を飲んで寝よう。」と思った。
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哀愁の御殿場線−沼津

御殿場生まれの私としてはなんといっても御殿場線です。
子供頃はまだ蒸気機関車D52が走っていました。
最初は東海道本線として日本の大動脈を担いながら、丹那トンネルの開通と同時に地方線へと転落を余儀なくされ、複線だった線路は太平洋戦争末期の鉄不足時にほかの鉄道線路に転用される ため引っ剥がされ単線として、生き抜いています。
そこには一生懸命、貢いだのにいいときだけ利用されて捨てられた飲み屋のネイちゃんのような感じがしなく もないです。その捨てられたネイちゃんに貢ぎ続けた俺の立場はいったいどうなるんだ? 電話がかかればすぐ行ったのに。コンビニ弁当まで買いに行かせやがって、冷蔵庫の片付けまでさせやがって
チクショウ・・・禿げ頭のオヤジが顔を真っ赤にしてもしょうがないよね。
だけど、まあ人生、グー、ちょき パーということにしておきましょう。
そんなことはさておき、沼津駅から案内しましょう。

沼津駅
静岡県東部の中核都市です。駅構内は広く昔の面影を残しています。
「沼津までぬまづ(飲まず)、食わずで行こう。」 という
「どんびき」のセリフを言わせて頂きます。
東海道本線と御殿場線が乗り入れています。
特急電車は「東海」静岡 東京間 と「あさぎり」 沼津新宿間の2本のみです。
広大な貨物の引込み線は次々と消されていき、駅高架建設に向け工事 を開始する予定です。
南口駅広場にあるC58(C62でないところが悲しい気分にさせます。
これは鉄っチャンで無いとわからない気分です。)の動輪がかつての栄光を物語っています。
ホームにある洗面所は昔蒸気機関車が走っていたころ乗客が「スス」で 汚れた顔を洗うために設けられたものです。

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大岡駅、下土狩駅、納米里駅

大岡駅
沼津市大岡にある小さな駅です。これといって特徴がなくまあこんな駅です。

下土狩駅
かつて御殿場線が東海道本線だったときは三島駅でした。
丹那トンネルが開通し三島駅が現在の場所に設置されると、下土狩駅に改名され、現在に至っています。
それは一流クラブでナンバーワンのホステスが年をとり、美人だけど性格が悪くて店にいられなくなり、格下のクラブに移動して、そ こでももっぱら性格(ここでは私は美人よという態度を指します。)が災いし、
「ヘルプ」と「場内」で食っているような感じがしなくもないです。(ちょっとたとえがあまりよくありませんが勘弁してください。意味があまりわからない人は近くの「オヤジ 」に聞いてください。)

御殿場線は単線なのでここで列車の入れ替えをします。
長泉町はとても豊かな町です。なぜなら東レ、協和発酵、東邦べ スロン、特殊製紙、フジボウ電子等、みんな三島工場としていますが実際の所在地は長泉町なので税金は「ぜ〜んぶ」長泉町に入ります。
そして工場排水だけが「ぜ〜んぶ」三島市に流れていきます。
その三島市は「水の都 三島」 といたる所でたて看板を立て、自慢しています。
「がんばれ 三島市 いいぞ 三島市」
静岡県東部地区では長泉が住宅の土地では最近は一番地価が高い所です。

納米里駅
 この駅をなんとよむのでしょうか? おわかりになるでしょうか? 「なめり」とよみます。
長泉町にできた御殿場線で一番新しい駅です。近くに県立がんセンターがあります。
長泉町長の柏木町長が納米里出身だったのでできた駅です。建設費は  億円でした。

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実録 鴨宮三島38分 1 

 その日は珍しく遅くまで仕事をしていた。
 明日までに事業計画書を作成しないとお金が借りられないからだ。
すると、メールが届いた。スナック「恋」の美人ママからだ。
「お願いがあるのですが。 。>::<、、、、」
 当時、私はかなりスナック「恋」の美人ママに入れ込んでいた。
 ビラ配りが終わり、疲れた身体を癒すために「万葉の湯」に行き、
 服を全部脱ぎ、いま正にサウナに入ろうとするときでも、
 メールがあれば、「いやあ、気が合うねえ、ちょうど電話しようと思った
所なんだよ。すぐ行くから」といい、マッサージをキャンセルして、いそいそと出かけるほどだった。
 「どうしたのですか?」と電話をすると、目が痛いので目薬を買ってきてほしいとの事だった。
 時計は8時45分を過ぎていた。駅前のドラッグストアは8時で終わりだ。
 こんな時間に開いているのは鴨宮に行くしかない。
 私はすぐ仕事をやめ、車に乗り込んだ。
 仕事は適当に言い訳して延ばせばいいと思った。
  急いで鴨宮に行った。
 幸い店はやっていた。
 私は目薬3個と眼帯と男の「性 さが」で栄養ドリンクを3本買い、車に乗り込んだ。


実録 鴨宮三島38分 2 


 
小田原三島間は普通に走って50分ほどかかる。
 鴨宮からだと1時間はかかってしまうだろう。
 普段ゆっくりした運転をするように心掛けている私だが、このときは「サーキットの狼」になった気持ちで車を走らせた。
今、ママは一人、カウンターで臥せっている。
たぶん淋しい演歌が流れているだろう。
 そこへ私が現れる。 目と目を見つめ、
 「大丈夫?、、、、、」
 「ありがとう、、、、、、」 
 答えはひとつである。
 「長かったなあ、、、ここまで来るのは。」
妄想と期待を膨らませて箱根峠を越えた。
幸いトレーラーもいなくて、箱根新道をなんと11分で登りきってしまった。
 カーブを曲がると三島の街の夜景が一望できるポイントがある。
まさに心境は「翼よ、あれが三島の灯だ。」という感じだった。
 車を駐車場に停め、小走りに店に向かった。
 「落ち着け、落ち着け。」自分に何度も言い聞かせた。
 深呼吸をして店の前に立つとなにやら賑やかな声が聞こえてきた。
 「おかしいなあ、、、、」と思いながら、まさか店に入らないと何も始まらないので、ドアを開けた。
すると、そこにはママを追い掛け回している3人組がいたのである。
 店の中は盛り上がっていた。
 40分ほど前に電話を掛けてきたママはカウンターの奥にいて元気だった。
私は驚いた。
 「しびれるなあ、、、、」 カウンターの隅に目薬の袋を置いた。

  実録 鴨宮三島間38分 3

 ママはだいぶ酔っていた。
私は、ママに「眼は大丈夫?」と尋ねたら、
「お酒を飲んでいたら、治っちゃった。」と答えた。
 私は眼帯を差し出した。
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車 Vol.2

新事務所を造った。 あまり人付き合いが好きではない私は新事務所の挨拶状も出さずにいた。
だが挨拶に来なければいけないやつがいる。
それはNだった。彼は新事務所ができても挨拶に来なかった。
新事務所は銀座通りにあり、仕事で必ず通る場所にあった。
まあいいやどうせ定期点検の時にでも来るだろうと思っていた。仕事も忙しくすっかり彼のことは忘れていた。

そこへヒョッコリNが来た。上司も一緒だった。
私はいつものように「お前、あいさつに来るのが遅い」と悪態をつきたかったが、上司がいるので黙って彼を見た。
すると、Nは突然10月いっぱいで退社すると言うのだ。退社の挨拶に来たのだと言う。私は驚いた。
理由を聞いた。一身上の理由です。としか言わなかった。
次の勤め先は決まっているのか。と尋ねた。まだだと言う。
私は彼に言った。「お前な、普通に考えてみろ、今辞めてもロクな勤め先はないぞ。
それよりまた新しく人間関係を作らなければいけないぞ。」
「わかっています。でも、もう本社の人と話がついてますんで。」

「話なんか俺がつけてやるよ」と私はトヨタに電話した。もちろん演技だが・・・
私は「お前はトヨタという看板のもと生きている。たとえばの話だが今のお前だったら3500万円の家は買える。
でも辞めたら後、最低3年は買えないし、ローンも厳しくなる。
今、私をトヨタが雇ってくれるなら今すぐ不動産屋を辞めてトヨタに勤める。」とまで言って説得した。
しかし、彼は辞めますとしか言わなかった。

昔、私も銀行を辞めた。毎日が嫌で嫌でたまらず、逃げるようにして辞めた経験がある。
だが、今思えば、甘ちゃんの二重丸だったのである。
いろいろと人生を考える。安定した生活が一番だと思う時や、こんな思いをするなら二度とサラリーマンはやらないと粋がったりすることや。
そんな中で自分の気持ちに正直に生きていくしかないのだろう。
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お金をちょうだい

「お金をちょうだい」、美川 憲一。
この歌を始めて聞いたのはたしか高校生の頃だった。
お金をちょうだい。なんてとんでもない歌だと思った。
しかし、いろいろと人生経験をつむうちになんとも味わいのある歌だと想い
いつも飲み屋で歌います。

別れる前にお金をちょうだい。
あなたの暮らしに響かない程度のお金でいいから
そのお金でアパートを借りるのよ 。
あとはひとりでなんとかやっていくわ
がまんさえすれば一人だっていきていけるわ

私がよく行く飲み屋はどちらかというと
水商売の人がお母さん(男です。)に癒されに来る店なので
そういう雰囲気のある女の人が結構います。

しあわせだった あのころ あの日
むかしのあなたは貧乏でお金なんかなかったけれど
清らかな愛情につつまれていたのよ。
みんなあなたに捧げたけれど
過ぎた日のことは感謝こそすれ、うらむ気持ちなんかないのよ。

昔はきれいだったんだろうなという人が一人ポツンと飲んでいる。
そのひとつ隣で10年も同じことを 繰り返し話をして、
その話をまた初めて聞くような感じで相手してくれるお母さん(男です。)がいて、
あした息子を駅まで送ってかなくてはいけないから、もう帰るよという私がいて。

別れる前にお金をちょうだい。
そのほうがあなただってさっぱりするでしょう。

とりあえずこのくらいにしとかないと明日にさしつえるからと帰ろうとした時に
若い女の子が来たのでもう一杯飲む私でした。
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日 課

私が日課にしていることに「道は開ける」 デイ−ル カーネギー著 の英語版を訳しながら
読むことがあります。 この本自体はもう25年前から読んでいます。
10年ほど前にニューヨークにいった時に英語版を求めて買いました。
ページをA4にコピーし、左側に英語のコピーを貼り付け、右側にわからない単語を書きとめていく。
こんな作業をずっとやってます。ようやく全部自分なりに単語を調べ訳せることができました。
「悩み」をどうしたら克服して生きいきとした人生をすごすことができるか。
みなさんにぜひ読んでいただきたい一冊です。
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車 Vol.3

アベンシスは2年で7万キロも乗ってしまった。
箱根は雪が降るので、やはり四駆でスノータイヤを履いていないと冬に困る事が多い。
そこで、四駆の車を買う事にした。しかし、商売上・・・『新車を買う』と言う事は、目立つのでマイナーチェンジをしたアベンシスの四駆を買う事にした。
しかも、ナンバーも同じにして、色も同じにすれば誰も『新車』を買った事に気づかないからだ。
私は早速、Oを呼んだ。Oは私と同い年だ。Nの後釜として来た営業だ。
以前は、どこかの店長をやっていたが降格、降格と続き、いまはしがない係長だ。
しかも部下は一人もいない。
つまり『係長 ひとり』だ。
まあ、その点は私も同じようなものだが。

私はOに言った。「アベンシスの四駆を買うから、見積を持って来てくれ」
すると、Oは顔色を変えて「社長、アベンシスには四駆はありませんよ」と答えた。
私は驚いた。「おまえは本当にアベンシスには四駆がないと言うのか?」
Oは胸を張って答えた。「はい。アベンシスには四駆はありません」
私はひっくり返りそうになった。
なぜなら・・・私はインターネットのデジタルカタログに載っているのを確認して、頼んだからだ。
Oは当然、勝ち誇った顔をして突っ立っている。
 私は自慢じゃないが、自分の管理している物件の家賃敷金礼金等、全て言う事が出来る。また言う事が出来なければ、仕事をしていないと言う事だ。
私は言った。「もし、アベンシスに四駆があったらどうする?」
Oは言った。「ないものはないです」
「いや、仮にあったらどうする?」
「そんな事はありません」
私は、身体全体からタバコ臭いOに言った。
「いいか、こんないいかげんな俺でさえ、扱っている物件の価格・坪数・築年数は言える。その数は少なくても50物件以上はある。それはイロハのイだ。
おまえは自分の売ろうとしている、わずかな種類の車のエンジンの事も知らないのか」
Oはムッとした。
「そんなはずはありません」
Oは車の中からカタログを持って来た。
そして、一緒にカタログを広げた・・・
当然、、そこには四駆の種類がきちんとあった。
Oはしばらく、茫然としていた。じっと見つめていた。
「これだから、おまえは係長だよなあ、本当に立派な係長だよ」
私は投げ捨てるように言った。
すると、Oは
「いや、私がないと言ったのは今、店にないと言う意味でして・・・」
「はあ、言い訳もここまで来ると本当に偉いね、本当に立派だよ」
私は落ち込んでいるOに言った。
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車 Vol.4

Oは呼びもしないのに、私の周りをうろうろしている。
車を買え、買えとうるさい。
「社長、どうですか?」「社長、そろそろ?」
執拗にやってくる。
2代目のアベンシスを買ってから、2年が過ぎようとしているからだ。
あまりむげにも出来ないから、気晴らしに「買う」と言う。
すると喜び勇んでやって来る。
そして『あみだくじ』をやる。 当れば買うと言う賭けだ。
だが、Oは何回やっても負ける。本当にかわいそうになるくらい、当らない。
「ちょっとおかしいな、こいつ、よっぽど運がないんだなあ」と思うぐらい外す。
あみだで負けて、しょんぼりしながら帰るOが居た。
 しかし、2代目アベンシスもすでに7万5千キロを越えたので、車を買う事にした。
だが、Oの居る販売店は、どとらかと言うとアベンシスが最高級車で、それ以上の車は取り扱っていない。
取り扱っているのは小型車ばかりだ。
 昔、植木 等先生(私はクレージーキャッツの植木先生を、心底尊敬している)が
『こんな役は年を取ってからやるものだと思っていたら、知らない間に俺がその年になっていた」と言う、名文句を話された事を覚えている。
私も、もうそういう年になりつつある。
つまり『高級車に乗る』ということだ。
私はOを呼び、メルセデスを買うから値引き分をやるから買って来い、と言った。
するとOは「社長、高級車でしたらクラウンですよ」と言った。
私は、クラウンなんて『おやじ』が乗る車だと言った。
しかし、今、私がその『おやじ』になっている。
「おまえのところでは、クラウンは売ってないんじゃないか?」と言ったら
「いや、大丈夫です。クラウンの営業を連れて来ます」と言った。
しばらくして、若い営業を連れてOがやって来た。
 私は若い営業に言った。
「悪いけど、俺はクラウンなんてオヤジの乗る車は好きじゃないんだよ。あみだで勝てば車を買うよ。外れればメルセデスにするから恨まないでね」
若い営業は素直にわかりました、と答えた。
ろくでもない言い訳ばかりするOに慣れていた私は、素直な態度に感心した。
私は今まで、Oが何回もあみだをやって外した事を話した。
「2分の1のあみだで4回連続で外した事があるぞ。馬鹿だね」と笑いながら話した。
まあ最初に当ててしまったらつまらないので、今までの中で一番確率の低いあみだを作ってやった。
大の男三人があみだをやっている。
真剣にやっている。
すると、なんと、若い営業は最初で当りくじを引いてしまった。
私は驚いた、Oはもっと驚いていた。
私は慌てて「じゃあ、本番、行ってみよう」と叫んだ。
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車 Vol.5

Oと一緒に居る。
クラウンを買うためだ。
しかも、ハイブリッドだ。納車は3ヵ月先という。
Oは店長に名刺を差し出した。
そこの肩書きは『副課長』になっていた。
50になる元所長への嫌がらせとしか思えない微妙な『役職』だった。
フランス語で言うと『おまえみたいな売れない営業はやめてしまえ』と言う意味の肩書きだった。
Oの店では自販機のインスタントコーヒーを、自分で入れて飲んでいたが、ここは綺麗な女性がレギュラーコーヒーの私の好きなカフェオレを入れてくれる。
しかも、おかわり自由だ。
私はOに言った「同じトヨタでも全然違うなあ」
Oは「社長、私の所は経費を節約して、その分、値引きをするんですよ」と、たわけた言い訳をしていた。
試乗した。
静かで素晴らしかった。加速も申し分なかった。
いっぺんで気に入った。
BMWより良かった。もちろん好みはあるが・・・。
若い営業は、きちんとしていて対応も良かった。
こちらの質問に的確に答えてくれた、しっかり勉強もしていた。
見習わなければならない、と思った。
私はOに言った。「あいつは本当の営業だよな。しっかりとした知識・マナー・清潔感がるよな」
Oは言った。「彼は私が仕込みましたから、いいはずですよ」

「子供なのに店長。50で副課長かよ。はああ・・・本当にしびれるよなあ」
あくびをしながら大きな声で言ってやった。
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